マスコミの扱いには、不満です。自分の本を出します

 これまで新聞や雑誌、テレビの取材については協力的にしてきたつもりだが、最近は取材される側として、ちょっと待てよ、と思うようになってきた。特に6月の長崎県佐世保市の小学校で起きた少女の殺人事件以来、研究室にも、ねちずん村事務局にも取材が増えた。そこで否応なく最近のマスコミについて体験的に勉強させてもらうことになった。その勉強の成果をひとくちに言えば、マスコミは、やはりセンセーショナルにしか、子どもとインターネットの問題を扱えないようだ。事件に結び付けなければ書かけないし、映せないようだ。
 確かに物見高い視線は、分かりやすくて、おもしろいし目を引きやすい。しかし、あまりに単純な関係付けでは、この深刻な事件の本質を理解するのに、むしろ妨げになるのではないかという気がする。

 佐世保の小学校の事件の外見が、あまりに衝撃的であったことから、世の親御さんが不安をつのらせたのはまちがいない。しかし、その不安心理にだけ焦点を当てたものがあまりに多い。正確に言えば、不安を煽るか、それとも安易に安心させようという姿勢か、そのどちらかに偏っているのではないのか。実際、「これで安心」という類の本も、いっきょに多数出版されているが、読んでみるとツギハギで、極端な場合は「フィルタリング・ソフトがあるから安心していいよ」というだけのものもある。その裏には、ジャーナリズムの商魂
 が見え隠れする。

 実際に出版社の中には「このタイミングを逃さずに早く出したいので貴方の名前だけでいいから貸せ」とか、「ライターに書かせているが、どうまとめてよいのかわかない。書けなくなってきたので、すぐにアドバイスをして欲しい」など破廉恥な申し出をメールでしてくる。こんなことは、メールだからできるのだろう。メールの無い昔なら、編集者は対面して話さなければならないから、面と向かって恥ずかしいことは言えない。実際これまではそうだった。便利ということは、軽い風潮を生むのかもしれない。拙宅においでになり、原稿用紙を束ねて、それを風呂敷に包んでお帰りになった編集者の風景が懐かしい。

 本屋さんより始末がわるいのは、新聞、雑誌かもしれない。こちらのほうの私の解説も不安材料か安心材料か、そのどちらかに振り分けられてしまう。新聞社、通信社で、もっといけないのは、誰かを悪者や犯人にしたがる傾向である。この事件を、子どものインターネット利用問題の解決に向かって大人が考える材料にする、というフではなく、スキャンダルにしようという意図さえ透けて見える。これからは、聞き手の記者の意図、真意を最初に聞いて、そのことだけを話すようにしないと、こちらが被害を受けることもわかった。こちらは、今回の事件をきっかけに、現代の子どもらを取り巻く情報メディア環境が昔とどれだけ変わったのか、ここで一度立ち止まって考えてもらいたい。これまで息もつかずに走り続けた結果たどり着いた今の風景を、見直してもらいたい。そういう思いで1時間も、ときには2時間も、一生懸命レクチャーしているのだが、そうしたメディア進歩の理解は、意外と苦しいのか、時間がないのか、メディアの本質理解の努力をせずに、事件の表面的出来事を繰り返し撫で回す。たとえば今回の事件がネットでの書き込みに関係するといえば、その問題だけに焦点をあてる。全体的なインターネットというメディアの特性にまでは言及しない。

 ようするに、相手は自分の聞きたいこと、すぐに理解できることだけを書く。なかには「悪いのは東京の中央官僚だ、政治家だ、学校関係者だ、通信会社だ」とか言わせたくて、その部分だけをアップして書く。おかげで、私は権力者や売れっ子の作家に喧嘩を売る役回りをさせられる。他人の喧嘩ほどおもしろいものはないので、読者受けする。おまけに前後の文脈に関係ない過激な発言の部分については、こちらに非難や蔑視が向けられる。実際に3日前に「下田さん、学者にしては軽薄、過激ですね」などはっきり非難されてしまった。ライターの狙いはそこだろうが、それは少しばかり底意地が悪いのではないのか。悪者探しをするのなら人の言葉ではなく自分の言葉、文章でやってほしい。これからは、はっきりそう言うことにしたい。もう昔のジャーナリストの美風なぞ懐かしんではいられない。

 もちろんマスコミの人々が皆この類ではない。中には、面白く報じるというのではなく「今回は勉強に行きます。意見もぶつけたい。すぐ映像にしたり記事にしたりはしません。そのうえで報道します」という、この大変化の時代にふさわしい対応をしていただける方々も多い。そういうかたがたと、今後もじっくりお付き合いしたいというのが、本音である。そのためには、こちらもきちんと情報提供しなければと考えるようになってきた。きちんとした論文を書きたいのはやまやまだが、その間に安直なレクチャーをしているだけではすまない。相互理解が必要だ、とも感じはじめたのである。だから自分の本を出します。

 いま書いている本の題名は、仮に「携帯リテラシーの勧め」としている。この本の内容は以下の7点に集約できる。

(1) 子どものインターネット利用問題を解決するための提案が目的(問題解決の本)で、大変だとか、安易に「安心しろ」とか、悪者はこいつだ、とかいう本ではない。高みからの評論でもない。自分の体験をもとに、大人、親が、やれることから地道にきちんとやろうよ、と呼びかける本、「仲間作りのための本」である。

(2) インターネットの利用問題をパソコンからではなく、携帯電話から説いていく。日本の子どものネット利用は携帯電話からが中心という現実から。

(3) しかしネット時代の子どもの生態観察が目的ではない。今の、子どもの日々の希望や不安、怒りが新しいメディアの使い方にどう反映しているのか、子どもたちとともに探った結果の報告です。

(4) 親や教育者に訴えたいこと。それはマスメディア時代の子育てノウハウだけでは間に合わない、パーソナル・メディア時代の子育て法を早く育まなくてはいけない、ということ。マスメディア時代の子育てノウハウだけにしがみつかないで、現実を直視し子どものメディア遊びにもっと関心を持ってほしいということです。ここがわかってもらえるように事例を沢山出します。

(5) パーソナル・メディア時代の代表としての携帯インターネットの総合的で正確な理解。このメディアは情報行動のパワーアップになる便利な道具だが、子どもの利用には問題となる機能的特徴を持っている。そこを理解しないで大人、親が与えっぱなしではいけない、ということ。

(6) 小学校から高校まで、子どもの成長に合わせてどのようにインターネットを使わせればよいのか、下田からの提案です。こちらの提案をもとに、自家流のネット子育て法を考えてもらえる本。

 (7) 自分の子どもだけでなく、地域の子どものことも考えないとIT時代の子育てはうまくいかない、とうのが私の主張です。日本で初めてのITモデルタウン実験の紹介。そのためには家庭と学校が協力し、さらに市民活動と自治体、行政のコラボレーションが必要になることを主張します。