ねちずん村(IT市民啓発活動)5年目の総括と今後の課題
現状把握から問題解決へ。(これからが難題?)
子どもの携帯電話利用問題を考え始めた親たち

 去る6月20日、前橋市のねちずん村展示・パソコン研修室で、文部科学省の2005年度「青少年を取り巻く有害環境対策事業」の第一回実行委員会が開かれた。この事業は昨年からの課題を引き継ぐ形でスタートした。
 考えてみれば我がねちずん村の市民啓発活動も5年目を迎えたことになり、ここで少し立ち止まってこれから何をすべきか整理してみる必要があるのかもしれない。

 思えば2000年から2001年にかけては、日本の高校生達の携帯電話利用問題が急浮上した時期にあたる。ねちずん村も最初は中高生らによるパソコンからの「家庭のインターネット利用問題」がテーマだった。この問題はアメリカではNPOが学校と連携しながら取り組んでいたから、日本でも何かしなければいけないという思いがあったのである。そこで市民立NPOカレッジが学習機会と場所を提供し、ここに母親などPTA関係者や学生、教師、県庁職員らが集い、公民館なども使って勉強会をはじめた。そのうち私は、アメリカのメディア研究者の指摘もあって「日本の子ども達のインターネット利用問題はパソコンよりも携帯電話(携帯インターネット)ほうが深刻なのでは」と気がついた。

 当時携帯電話は先端技術商品で、「持っていないと仲間はずれにされる」と子供達が言いはじめたほどの流行商品になっていた。親のほうも、子どもが欲しがるし与えると喜ぶ道具だ等々の理由で、日本の子どもの世界に携帯電話が急速に普及した。しかし、そうした流れの中で、過去5年間に中高生らの携帯電話を使った多様な非行、犯罪が増加してきた。また子ども達の学校や家庭におけるライフスタイルもよくない方向に変化している。
 そのような事件やトラブルの増加と我々の啓発効果(?)も少しは影響したのか群馬県内でも「携帯電話の与え方を考え直そう」とか「子どもらへの対応の仕方を再考しよう」という動きが一部の親達の中から出てきた。これは現状の問題の解決からすれば、喜ばしい動きである。

 子どもの携帯電話利用問題を考え始めた親たちの、新しい動きは二つに分かれている。
 子どもに「携帯電話を安易に与えない」あるいは「持たせない」という親。
 子ども達に「使い方を注意しなければいけない」と考える親。の二つのタイプである。

  このうち第一のグループは小学校低学年か中学生の子どもを持つ親に多い。「考えもなく、せがまれるままに買い与えているだけでは色々な意味でリスクが高くなる」と気付きはじめたわけだ。問題は、どうすれば第一のグループに「親として自分の考えを固める情報、理論的根拠」を与えることができるかである。

 また第二のグループでは「子どもへの注意、指導の仕方」が悩みの種になってきた。講演を聴いただけでは、子どもにどう話しかければよいのかわからないというのである。
 ねちずん村のこれまでの啓発活動では現状把握と問題解説が中心で、子どもへの話しかけ方など手がまわらなかったというのが偽らざる実情である。しかし問題解決の緊急性から言えば第二のグループへのアドバイス、サポートが優先されるべきであろう。第二のグループへのアドバイス、サポートでは、まずメディアリテラシーの基礎としての「道具としてのメディアの客観視」という思考作業をしてもらうことが、必要だろう。言葉を換えて言えば「改めて携帯電話とは何か」本質的理解をしてもらう必要がある。表面的な理解では、子どもたちを納得させる話しかけ方をすることはできないだろう。

 携帯電話を「見くびる」。それが思考停止や誤解を招く原因

 とは言え、このメディアの本質理解はなかなか難しい。理由は、携帯電話というメディア、道具は、外見からは「利用にリスクが伴う高度な情報通信技術の集積装置」とは思えないからである。つまり親や大人が「これは理解力や判断力の未熟な子どもに使わせるには難しい機械装置だな」とは思えないからである。つまり「昔から見慣れた電話だ」くらいの認識でケータイを見くびる傾向があるのだ。

 例えば、携帯インターネットは問題を起こしやすいという講演を聞いた親の多くは、気楽に「それなら子どもに使い方を注意すればよい」という。そうした人は「携帯電話も道具である。恐れることはない。昔から道具は使い方次第。使い方が悪ければ害になるが、注意して使えば益が大きい。例えば包丁がそうだ。包丁が無ければ料理に不便だ。便利なものだから注意して使わせればよい。昔からそうして教えてきた」という。包丁と携帯電話では道具の種類も違うが、危険性回避の説明、理屈としては、それは間違いではない。しかしそれだけでは安易な考え、お気楽な結論に終わってしまう。

 試しに「ことは簡単。使い方を注意すればよい」と言う人に「それでは実際に携帯電話の使い方を子どもにどう注意するのか?」と聞くと、大抵はちゃんと答えられない。せいぜいが、「公共の場では電源を切るなどマナーの注意をしろ」とか「使い過ぎないように料金に注意」あるいは「出会い系サイトや不法請求に気をつけろ」くらいの注意である。

 それだけで十分か?と聞くと一転「不十分だ。十分に注意する自信が無い」と言い始める。しかし中には「それで十分」という人もいる。そう言う人には「不法請求にどう対処するのか」とか「なぜ子どもたちは、いけないという出会い系サイトへのアクセスを止めないのか」「子どもたちが実際に出会い系サイトをどのように使っているのか。彼らの期待と利用実態を正確に知っているのか?」あるいは「気を付けなくてはいけないのは出会い系サイトだけか?他に無いのか?」とか「各種の遊びのサイト利用でどのように気を付けるべきか、子どもに説明できるのか?」と聞くとたちまち答えに詰まってしまう。

 なぜそうなるのか。理由は上記したように、携帯電話という高度な情報通信装置の理解が案外しづらいからだ。つまり見くびられやすい道具なのだ。あのかわいい玩具のような外見的印象からは、「害が無いように使いこなすのには相当な判断力や自制力を必要とする情報装置とは考えにくい」からだろう。ではどのようにすれば、子ども達を夢中にさせる携帯電話の本質を理解することができるのか。

 それは「一見して分かったつもり」の、あるいは「分かっているつもり」の携帯電話を改めて見直し、その機能の全貌を過不足なく理解することである。つまり一度携帯電話というメディアを突き放して見直すことだ。そしてここからメディアリテラシーの本当の理解がはじまる。

多様で高度な使用目的を達成するためのリスクマネージメント能力が

 まず外見的理解からすると携帯電話は電話と思い込みやすい。ここを疑ってみる必要がある。携帯電話は、確かに電話であるが、単なる電話ではない。これはインターネットが使える情報通信装置である。それもモバイル・インターネットという高級な道具だ。そこから認識をはじめないと、子ども達の期待、つまり使用目的を誤解することになる。たとえば親は連絡用の通話機と見ていても子どもはインターネットで多様な遊びができる道具とみなして使い始める。
 親の使用目的の理解が不十分であれば、使用にあたっての注意も的外れになる。さらにはどう注意してよいのかわからなくなる。だから考えるのを止めたくなる。

 それはさておき、あらゆる道具には使用目的があり、その道具を子どもに使わせるには、使用目的の説明からはじめ、そのうえで注意させなくてはならない。たとえばよく例に挙がるケータイと包丁の例えで言えば、包丁という道具には食べ物の調理に使うという目的があり、そのため刃先が付けられる等、目的にかなった形をしている。そう教えたうえで、まちがって刃の部分を掴んだり、よそ見をして切っていると指を落とすことがある等といった注意をし、害の無い使い方を教える。

 では携帯電話の使用目的は何か?「ケータイは通話が目的」と単純に認識しているだけでは子どもに注意はできない。子ども達は通話だけが使用目的とは考えていない。これでゲームをしたり小説を読んだり、音楽を楽しんだり自己表現したり、禁断の情報や品物を入手したりガールフレンドやボーイフレンドを作ったり等、実に様々なことをしようとしているし、それができる道具だ。つまり使用目的は多様なのである。これがインターネットという道具の本質だ。

 だからこの何でもできる道具を間違いなく使いこなす指導は決して単純、簡単ではない。そのリスク管理ができなければ益が害になる。子どものネットトラブル相談に振り回されている某消費者センターの責任者が「ネットを使った買い物には契約書を理解する能力が必要、と当たり前のことをいまさら言わなくてはならない」と嘆いていたが、子ども、それも小学生にもそんな能力を求めなくてはいけない時代になったのかもしれない。インターネット、携帯インターネットを使った子供の詐欺事件や人権侵害には商法、民法など知りもしない子どもに好き勝手に使わせているという現代日本の躾の現実が反映しているのだ。

 商法や民法ばかりではないネットでの子どもの情報発信が人を殺したり、死に追いやるケースも出ている。包丁で指を傷つけるどころではない。こうなれば刑法も教えなくてはならない。要するにネット利用で子供を被害者や加害者に仕立て上げぬためには、お行儀作法的なモラル教育ではまにあわぬくらいの現状になっていると、私は思うのだが…。

 ま、現状認識はともかく、少なくとも携帯インターネットという道具の利用目的からすれば、原理的には高度なリスクマネージメント能力が求められるはずである。
 「自分の子どもには流行商品を持たせたい」とか「先端技術製品としての携帯インターネットを早く使わせたい」という親たちに、このことをどう伝えていけばよいのか?頭の痛い課題が見えてきてしまった。