心配することは「いけない」ことなのか?
オサイフケータイ、フルブラウザなどIT進化をめぐる議論から

 先日、東京で新聞やテレビの記者、フリーライターなどジャーナリスト達と本音で話し合う機会を持った。その折に「下田さん、言っていることは分かるけど心配しすぎだよ。そんなこと言ってると若い連中に嫌われるよ」とか「本気でそんなこと言ってると時代に置いていかれるよ」と言われた。ようするに「アンタもジイさんになった」とからかわれた(?)わけだ。あるいはそうかもしれない、と思いつつも「心配して何が悪い!君らこそIT便利のコマーシャルに流されているだけじゃないのか?時代の変化を先取りするべき君達の方が思考停止状態になっているのでは…」と気弱な反論、というか開き直った反論を試みてみた。

 彼らが私に言ったことをまとめると、こんなことになる。まずひとつには「世の中は便利を求めている。オサイフケータイやフルブラウザにはニーズがあるんだ。逆らっちゃいけないよ。」という便利万歳論だ。ふたつめは「ケータイ・インターネットでワイセツ情報が子どもに流れることはわかっている。しかしそれで犯罪を犯す人はごく一部だし、我々も高校生のときにビニ本見ていたように、そんなのすぐに飽きるよ。」というワイセツ情報飽食説だ。そのうえで、彼らはとどめを刺しに来た。「昔からワイセツ情報を規制しようというのは権力者の発想だ。アンタも年をとって権力的発想になったのか」と。

 そこまで言われては黙っているわけにはいかない。「僕が発言しているのは政治家、つまり自分達に都合の悪いことを発信するマスコミを叩こうという立場からじゃない。親、大人の立場から、IT時代の子どもの心配をしているだけだ。それにインターネットは権力で規制などできるメディアではない。これはマスメディアとは違う。猥褻情報の入手ばかりか、個人でも信じられないくらい色々な事が出来てしまう強力なパーソナル・メディアだ。」と反撃に出てみた。

 私が彼らに言ったこと、つまり私がインターネット、とりわけケータイ・Cンターネットというメディアの子ども達に与える影響議論で心配していることは、次の5点である。

(1) インターネット(ザ・ネット)はビデオ、雑誌、テレビといったマスメディアと本質的に異なるパーソナル・メディアだ。案外マスコミの諸君は、このインターネットのメディア特性を十分に理解しないまま、TVもインターネットもごちゃまぜにして子どもへの影響を語っているのではないのか。

(2) ザ・ネットは、雑誌やテレビと違い「情報による意識形成力」が格段に強い。TVなどマスメディアの利用者(受信者)は情報の単なる消費者(コンシュマー)だが、ザ・ネットの利用者はアルビン・トフラーの言うプロシューマーなのだ。つまりザ・ネットは自分で自分の情報欲求にかたちをつけることができる道具なのだ。良い情報欲求ならばいいが、自他に害なす情報欲求を子ども達が持ち、それにかたちをつけ始めたらどうなるのか?既に猥褻、誹謗中傷、脅迫から日常的イタズラまで事件やトラブルを生む発信を子ども達が盛んに行っている。そうした現状をオロオロしたり、ただ口を開けて見ているだけでいいのか。ザ・ネットの利用は漫然と情報を受けているテレビより能動的姿勢を生み出す。つまり、その能動的かかわりが、意識ののめり込みを促し、結果として自己の意識変容力は大きくなるのだ。

(3) いわゆる子どもにとっての有害情報についても、情報飽食説はマスメディア時代の発想に過ぎない。ただ情報を受けるばかりか自分でも積極的に情報を取りに行ったり、求めているものがなければ自分で創り出すことができる道具がザ・ネットなのだ。現実にも情報プロシューマーと化した子どもらは猥褻情報の発信者、プロデューサーにも変身している。そのことに気付いていないのでは?ようするにネットのブラック情報は利用者参加型で増殖し、刺激度は映像など技術進歩もあって高まっていくから直ぐに飽きる状態にはならないのだ。

(4) 双方向メディアであるザ・ネットの利用では情報追求欲求が高まるとともに、情報を発信する見知らぬ相手との出会い願望も膨らんでいく。なにしろザ・ネットはコンタクト(人間関係作り)を特徴とするメディアなのだ。特に携帯インターネットは、時と場所の制約無く出会いを可能にするメディアとして進化中である。そうしたベンリの進化の結果、子ども達は情報の判断より難しい人間の善し悪しの判断をちいさなうちから迫られる時代になったわけだが、大丈夫だろうか?

(5) 携帯インターネットには未知の出会い、行動を促す力があるが、促される行動の種類は人と人の出会いに限らない。これを使えば、子どもでも取引や決済行動、それも商法や民法の知識が必要なレベルの商行為を簡単に行うことができる。つまり、今や子どもの能力以上の道具を与えているわけだ。いや大人にも使いかたが難しい道具を注意指導もできないまま与えているというべきかもしれない。

 考えてみれば、昔から大人は子どもに道具を与えるとき、使い方に注意するよう教え指導してきたが、それができない状態、つまり好き勝手に使えと言うしかない状態になっているのではないか。そう言うと「いや、今の子ども達は情報社会に生きているだけあって我々のガキのころより賢いですよ」と気楽に言ってのける御仁もいるが、今の子が昔に比べて賢いかどうかどうやってわかるのか?また放っておいて子どもが賢くなるのなら教育も躾もいらぬことになるのだが、どうお考えか?

 なによりそういう人には「あなたは大人として、子どものことを心配しなくてもいいと思っているのですか」と問い質したくなる。

 大人とは、どんな人間か?私の考えでは「子どものことを思いやり心配することができる人」それが大人だと思う。愛情もつきつめれば「心配する力」に他ならない。その力がなければ親とは言えない。そういう大人の立場から言えば、この夏のフルブラウザー・サービスのスタートは心配の種だ。子ども達はどんどんダウンロードしているようだが、フィルタリングは効かないしパケ料も使い方次第では驚くほど高額になる。本当に大丈夫だろうか?携帯会社も大人の商売をしているのだろうか?