思春期の子供たちにとっての携帯インターネット
―ネット上の心の居場所とは?実態に即して、もっと深く考えよう。―

膨れあがる出会い願望

 佐世保の少女殺害事件で、インターネットは「子供たちの心の居場所」と表現された。しかしこの言葉は、「子供たちの心の闇」と同様に、わかったようでよくわからない。いや、これでわかったような気にさせられるのが危ないと思う。言葉が深いところから捉えられていないからだ。もっと実態に即して、言葉の意味を説明する努力が足りないのではないのか。私は、この間、そうした主張を雑誌でも書いたし、先日はNHKのディレクターの方々にも、私のそうした考えを説明してきた。

 まず言いたいことは、インターネット、とりわけ携帯インターネットを見る子供たちと大人、教師、親のまなざしの違いである。親や教師は、インターネット(携帯インターネット)を安全のためとか、学習のためなど子供の教育、管理の視点から眺めている。しかし子供たちは、特に思春期の子供たちは、このメディアを遊びの道具、自己確認や自己主張のメディアと見ている。このまなざし、認識の差が、子供のメディア利用の誤解を生んでいるのではないか。

 思春期の子供たちといえば、年齢では10代の少年少女ということになろう。主として12歳から18歳くらいの、子供から大人への過渡期にある子供たちである。この時期の少年少女は、自己確認や自己形成のエネルギーが盛んな年頃で、性の違いや外見のよし悪しなど自他の区別にも敏感となり、他者への働きかけや自己主張、自己表現意欲も盛んになる。

 ここでは紙面の関係から、インターネット(携帯インターネット)というパーソナル・メディアの普及が、そうした思春期の子供たちの人間関係形成に与える影響に絞って考えてみたい。

 まず日本の子供のインターネット利用の現状について、簡単に説明しておきたい。日本の10代の子供たちのIT利用、特に高校生らのIT利用は、インターネットの母国である米国の子供も使っていないような携帯インターネットが一般的である。もう少し正確に言えば、パソコンからのインターネット利用より携帯電話からのインターネット利用のほうが盛んである。なぜそのような状況になったのか。いろいろ原因はあるが、最大のものは、主として女子高生らをターゲットにしたiモードというインターネット接続型携帯電話が発売されたことだろう。なぜiモードというインターネット接続型携帯電話が女子高生らをターゲットにしたかといえば、彼女らがポケットベル(略してポケベル)というメディアを大ヒットさせたからである。

 女子高生らがポケベルに飛びついたのは、自分の学校の友達以外の友人を作るのに便利な道具とみなしたからである。女子高生は心の悩みや愚痴を聞いてくれる可能性のある友人、それも対面したことのない友人(たいていは他校の男女生徒)をポケベルで見つけ出すことができると気付いたのである。そして、そうした女子高生のポケベル利用に呼応するかたちで、男子高校生がポケベル利用に走った。

 さらに、そのような友人、それも異性の友達を作りたいという子供たちのポケベル人気をみて、携帯電話会社が、通話だけの機能しかなかった携帯電話に電子メール機能やホームページ閲覧などインターネット機能を追加して発売したのである。この新型の携帯電話は飛ぶように売れた。なぜならこの新しいパーソナル・メディアはポケベルよりも簡単に見知らぬ友人(インティメイト・ストレンジャーと言う)をつくることができるからである。ちなみに、そうした電子メールなどができる携帯電話からのインターネット利用を、携帯インターネットと呼ぶようになったのだ。

 高校生らは、携帯インターネットを使ううちに、この新しいメディアが、インティメイト・ストレンジャーを探すだけではなく、いながらにしてゲームをして遊ぶことができたり、自分の考えを広く発信することもできるテレビのような力を持つ道具だとわかった。とりわけ、携帯インターネットは、なんのしがらみもないよその土地の子供たちと知り合いメールでつきあうことができるばかりか、面識のないそのメル友たちと実際に会う手引きまでしてくれるメディアである。このようなインターネットのメディア機能をコンタクト・サービスともいう。人と人を関係付ける働きを意味するコンタクトの機能は、やはりインターネットのもう一つのメディア機能であるダイレクト・コミュニケーションの機能とともに、子供に自由な行動を約束した。

 ここでいう自由な行動というのは親や教師など子供を管理する側からの自由を意味する。つまり携帯電話からのインターネット利用があれば24時間、寝床の中にいても友達と交信でき、場合によっては、深夜でも、いつでも相手と出会うこともできる。ポケベルからPHS、携帯電話というパーソナル・メディアの進化は、子供たちの出会い願望を膨らませる働きをしている。

 そればかりではない。この新しいメディアはそれまで子供に禁じてきた種類のワイセツな、あるいは暴力的な情報もパソコンや携帯電話を使って簡単に入手することもできるし、そうした子供に悪巧みを仕掛けてくる大人とコンタクト機能で結びつき、人間関係を作ることもできるメディアなのだ。私はこのようなメディアをバイパス・ネットワークとも呼んでいる。

 子供の最終責任者である親の頭越しに、見知らぬ大人が未成年の子供らに直接働きかける「バイパス・ネットワーク(迂回ネット)」は、援助交際という前代未聞の子供と大人の人間関係をも生み出した。そして携帯インターネットは、子供たちに、その援助交際の体験を発信する手段さえ与えてしまった。たとえば、あの子供の世界でベストセラーとなっているディープラブというケータイ小説が良い例である。私が子供向け猥褻小説と呼ぶ「ディープラブ・アユの物語」は、元予備校教師を自称する大人が「ザブン」という名称のホームページを立ち上げたことから生まれた。それは援助交際経験のある少女らが、そのサイトに書き込みをして作り上げられたネット時代の読者参加型小説なのである。

 この小説が子ども達の、携帯を使った口コミで次々紹介され、またたくまにベストセラーに成長していった。このような動きを、とりわけ子ども達が参加して猥褻な小説を作り、読みまわし、実質的に制作にまで関わっているという動きを、世の親達は知らなかった。これまで子ども達から有害図書としての猥褻本を遠ざけようと努力してきた大人達からすれば、子ども達が有害図書の作り手、発信者に変身していることに、ただ驚くばかりなのである。これでは「有害本を取り締まる」あるいは「締め出す」という従来の補導のノウハウは通用しなくなるわけだ。

 猥褻本のプロデュースばかりでなく、大麻を刻み込んだクッキーの製造など多様な犯罪にも、子ども達を誘い込む。つまり携帯電話(ウェブ・フォン)とパソコンによるインターネットが創り出す「バイパス(迂回)ネットワーク」は、これまで親やまともな大人、教師たちが子供から遠ざけようとしてきた有害情報や品物あるいは人物などを繋げるだけではなく、共同的な加担者に仕上げてしまう働き(人と人、人と情報を結ぶネットワーキング)をしはじめていることを重くみなければならない。

アフタースクール・インターネット

 日本でも、子供たちがホームページや、Eメール、メーリング・リストなどインターネットのメディア機能を使って、独自のパーソナル・ネットワークを形成し、見知らぬ友人を含めて、互いの絆や交友関係を広めていく動きが特に携帯インターネットの普及で、一般化してきた。

 このようなインターネット利用の低年齢化の高まりに注目して、この数年、子供向けのネット・ビジネスをしかける動きが活発化してきた。例えば最近ネット上に作られたバーチャルなレジャーランドとでも言うべき仮想空間ビジネスが広がっている。子供たちはそこで自分を表現する発信場所を作り、友達と出会い、お洒落をしたり一緒におしゃべりしたり、悩み事や相談ごとをしたり、ゲームに興じたりすることができる。会ったこともないメル友の場合であれば、実際に出会ったりすることもできる。つまり仲介や出会いの労までとってくれるメディアの機能(サービス)を提供してくれる仮想のレジャーランドである。

 そうした人気サイト(仮想のレジャーランド)としては、カフェスタ、ジオシティ、ふみコミュ(ふみコミュニティ)といったところが成長中だ。このうちカフェスタというサイトは佐世保の小6少女殺害事件の2人の少女が使っていたサイトとして、2チャンネルにも取り上げられ有名になった。またこの事件の後には「インターネットを利用している少女(小学校6年と中学1年)の69%が自分のホームページを持っている」という実態調査も発表されたりしたが、カフェスタのようなサイトは、そうした少女たちに、有料できわめて簡単に自分のページを作らせ、子供のネット遊びを盛んにさせるビジネスを展開している。

 その種のサイトでは、少女だけでなく少年も含めて、自分のページを魅力的なものにするため互いに競い合う。彼らは、自分のアバタを作ってホームページを訪れた既知あるいは未知の友達とチャットしたりゲームをしたりして遊ぶのである。さらに、その後一緒に遊んだメル友がインティメイト・ストレンジャーであれば実際に出会ったりもする。

 そうしたカフェスタのようなサイトをも含め、子供に人気の仮想のレジャーランドは、広義の出会い系サービスを提供している。たとえば「ふみコミュ(ふみコミュニティ)」という小学少女に人気のサイトでは、子供たちが携帯電話のカメラで顔写真(ときには全身)をサイトに送り、プリクラ交換(プリ交ともいう)から出会いへの道もつけている。ちなみに中学時代からプリ交を続けているという20代前半の女性が、「エンコウとかしようと思えば簡単に相手が探せる感じがする」とも評価しているサイトだ。このような商業サービスの危険性は、米国であればすぐに問題視されるだろうが、日本では子供の人間関係や性行動の新しい出来事には楽観的、いや鈍感なのかもしれない。

 これらの仮想のレジャーランドを利用する子どもたちの利用動機は「おしゃれ」、「出会い」、「デビュー」という3つのキーワードに集約できるだろう。子供たちは、ホームページによる発信で美的センスやアングラ的言語センスを競い合う遊びの人間関係を作り出した。その競い合いのなかには、プリクラ交換でみられるような美貌(可愛らしさ)の競い合いも含まれる。そしてその競い合いの過程で、未だ見ぬ理想の相手、友達との遭遇やタレントや作家デビューの期待が、子供たちのなかで膨れ上がるという仕掛けなのだ。

 私は、上記のような子供たちの仮想のレジャーランドとしてのサイト・ビジネスの利用をアフタースクール・インターネット(学校外インターネット利用)と呼んでいる。それは、IT操作やIT利用による学習能力向上を目的とした学校内でのインターネット利用(スクール・インターネットと私は呼んでいる)とは目的も内容も違うネット利用である。その学校外インターネット利用は、自宅あるいは友人の家、ネットカフェなどで行われ、ネット利用の時間は学校内利用を凌ぐものである。またアフタースクール・インターネットは、パソコンだけでなく携帯電話からのインターネット利用でもある。つまり子供たちはその気になれば、深夜、寝床の中でも携帯インターネットの世界に浸りきることができるのだ。見方によれば、子供たちは強力なパーソナル・メディアに包まれて育つことになる。そのメディアの子供らに及ぼす力は、テレビ受像機の比ではない。

 我々は、マスメディア以上に強力なパーソナル・メディアを子供らに与えながら、マスメディア時代の子育てノウハウにしがみついているのかもしれない。

心の居場所を作ることができるメディア

 ところで子供たちは、なぜ新たな情報環境の主役、インターネットというパーソナル・メディア、とりわけ携帯インターネットに、これほど執着するのか?どこに、それほどの魅力を感じているのか。もう少し掘り下げて考えてみよう。

 既に述べたように、子供らは携帯電話とパソコンの両方からアクセスできるインターネットを、勉強や遊びの道具として使っている。つまり彼らはインターネットを、日々の宿題から夏休みなどの調べ学習やクラスの友達との連絡、さらには私がアフタースクール・インターネットと呼ぶプリクラ交換とかゲーム等のネット遊びの便利な道具として使いこなしている。しかし現代の子供らは、そうした使用目的以外にも、インターネットというメディアを「心の癒しのための手段」として使用し、そこに大きな魅力も感じているようだ。

 たとえば前に紹介したハンゲームとかカフェスタ、ふみコミュのような遊びのサイトを利用する場合でも、単に「暇だから」とか「もっと刺激的な遊びがしたい」といった動機ではなく、生活上のストレスからくる感情――不安や悲しみ、憤りといった感情を一時でもわすれたいというような切羽詰った動機から「遊びサイト」のコミュニケーションサービスを使うというケースも現実には増えている。しかしインターネットといえば学校での学習目的のインターネット利用(私はこれをスクール・インターネットと呼んでいる)しか眼中にない日本社会では、そうした情報社会での子供のきわめて人間的な情報行動には関心が薄いようだ。

 仮にさまざまな理由から学校が嫌になり学校に行けなかったり、学校で皆に無視されるようなイジメに直面したり、親と意見が合わなかったり、あるいは深刻な兄弟喧嘩や父母の不和などで家庭内に居場所がなかったりするようなとき、子供たちはインターネットの遊び場サイトでホームページを開いて心の悩みを吐露したり、掲示板に書き込みをしたり、アバタに変身して面白そうなサークルに入る。あるいは出会い系サイトにアクセスして心の悩みを訴えたり、愚痴を聞いてくれる相手を探すのだ。実際に、私のこれまでの経験では「携帯電話を絶対に離したくない」とか「自分にとってインターネットはテレビ以上に必要なメディア」あるいは「インターネットは自分の命綱だ」言い切る子どもの多くは、上記のような動機でネット利用をしている。

 特に不登校の子どもに話を聞くと「インターネットで同じ悩みを持つ友達を見つけたり意見交換をしていることで、自分だけが変じゃないんだと安心できる」とか「携帯電話のメールのやり取りだけでも孤独感が消える」などと言うのだ。そうした少年少女らの中には、「学校にも家にも自分の居場所はない。インターネットの世界だけが自分の心の休まるところ」と言い切る者さえいる。

 よく考えてみると、インターネットというパーソナル・メディアは、「心の居場所を作ることができるメディア」なのである。テレビでも書籍でも、あるいは同じ電話でも家に1台という家庭電話などでは、インターネットのできる携帯電話のように、友達(顔を見知っている友だけでなく見知らぬ友)といつも一緒とか、自分を支えてくれる友だちがいる等という満足感、安心感を与えることはできなかった。

 大人であれば、家庭以外にも居場所を作ることができるが、子どもらが精神的な緊急避難場所としての居場所を作ることはなかなかできない。しかしパーソナル・メディアならそれができると、子供らはわかった。

壊れやすい心の居場所

 実際にそうしたインターネットの友達づきあいで、心が落ち着いたり、癒されたことで学校や家の中での人間関係を取り戻すことができたという子供らも多い。そういう意味では、このメディアは人間関係のストレスに弱くなっているとされる現代日本のティーンズたちにとって、大事なメディアである。われわれ大人、親は、そのような現実をよく理解し、子どもらのインターネット利用を見守りつつも注意しなければならないと思う。

 注意が必要というのはほかでもない。ひとつにはネット上でやっと見つけ、作り上げた居場所が自分の不注意で壊れる、あるいは悪意の他者から壊される、というようなことが簡単に起きるからだ。例えばメールのやりとりのなかで、送信した会話文の表現について些細な誤解が生じ、それがフレーミングに発展し交友関係が突然切れてしまうなど、ひんぱんに起きていることだ。

 そうした場合、寂しい気持ちになるくらいで済めばよいが、気持ちの収まりがつかなくなって顔見知りの友達のホームページに匿名で汚い言葉を書き込んだりする。つまり一般に「荒らし」と呼ばれる行為をしたりすることにもなる。

 あるいは親切を装った悪意のある者から、偽名や変身で接近され、最初から計画的にからかわれたりした場合など、せっかくの居場所が壊されたという心理もあって怒りが収まらなくなり、心の世界が攻撃的あるいは自滅的状況になってしまうことも報告されている。このような場合、その子供にはどのような救済の機会があるのだろうか。我々大人や親は、インターネット時代にそのことに思いを馳せなくてはならない。なにしろインターネットというのは、これまでも説明したように子供らにも匿名のコミュニケーションや親、大人の頭越しのダイレクト・コミュニケーションを許してしまうメディアであるからだ。だから親子の関係では、従来のような子供の管理やしつけができにくい状況を作るメディアだが、それがわかったから急にインターネットを取り上げるなど、思いつき的対策をすれば逆効果になる。

 いずれにせよ、これからの子供たちは、地図に無いコミュニティ(仮想社会)とこれまでの地図にあるコミュニティ(現実社会)のふたつを行き来して暮らすことになる。そうした情報メディア環境を与えてしまったわれわれ大人は、携帯インターネットを教師や大人の都合でのみ考えないで、子供らにもっと責任を感じ、想像力を発揮しなければいけないと思う。