マスコミと今回の事件について
―できることを、大人としてやるしかない―

 6月4日はきつい1日になってしまった。東京での会合、講演の後、ついでにということでTV出演を引き受けたら、また、ついでにというしまつになった。気が弱いのか・・・。

 私は基本的にはTVは好きではない。映像化になじむ話となじまない話があるし、映像編集は活字よりも恐ろしい。片寄った印象を与えがちで、おまけに放送の場合は、強調がよりきつくなる。今回のように、ニュース性が大きいテーマの場合は、各社競争心やテレビマンの功名心が煽られるからよけいだ。前置きが、つい長くなってしまった。やはりストレスが出たのだろうか。

 まず、講演の話から始めよう。講演は政府のIT戦略にもかかわるEジャパン協議会からの要請だった。演題は前から決まっていた「子供とインターネットの問題」。(正しくは、難しくなるインターネット・携帯時代の子育てー日本のIT環境と大人の役割である)

 つまり佐世保の事件に重なってしまった。冒頭私は、「あの事件の被害者、加害者の少女2人は、次世代を担う可愛い子どもらのことを考えられない我々大人が作った情報社会、情報環境の犠牲者だと思う。」という私の考えを述べた。政府、IT業界関係者が入っていて、きつい言葉の返りがあるのではと思っていたが、結果的には「参考になった」「改めて真剣に考えたい」という反応で、多少は安心した。講演後の質問や意見交換で、特に関心を持たれたポイントは「親やまともに子供のことを考え、これまでも一生懸命に大人の役割を果たそうとしてきた大人(子供のことを考えられない大人、つまり大人とはいえない人々ではなく)達の頭越しに闇の社会と子供をダイレクト・リンクさせる迂回チャンネルが出来上がっている」というくだりだったようだ。具体的なケースをもとにして説明すればわかっていただけるようだ。

 講演の後の放送だが、局内でのインタービューでは、やはり「加害者の少女は特殊な子ではないのか?」という質問が出た。私は「今現在の情報から判断するかぎりでは特殊な子とはいえない」と申し上げた。さらに「あの子は特別、うちの子はまっとう、という単純な結論は思考停止を招く。インターネットやテレビのメディアとしての機能特性は、現代社会に生きる子供全てに影響するはずで、その現代情報社会の情報環境が、本当に子供たちのために良いものなのか、改めて考えるということにならなければ意味が無い。悪ければ皆で直すしかないと言っておいた。

 今、とにかく新聞やTVは、単なる好奇心を満たす視点で動いている。議題設定企画は、こういう大事件では、出しにくい。目先の謎解きに皆夢中だし、その材料獲得競争に走るのがマスコミといってしまえば、それまでだが・・・。しかし目先のニュースハンティングだけでは謎は解けないと思うのだが・・・。

 マスコミに、この際取り上げて欲しいのは、子供達が入っていくバーチャルワールド(パソコンや携帯電話から)の全体構造である。そこは子供たちだけが遊ぶ「しゃべり場」だけでなく、悪いものを売りつけようとするネット上の店や、子供をおびき出そうとする出会いの場や、現実世界の生活圏の営みと同様の活動空間がどんどん発達している。

 僕らが子供の頃は、街の全体がわからず、「あそこで遊んではいけない」とか「危ないゾ」という注意を大人達から受けながら次第に街全体と、街での人間づきあいを理解してきた。ネット上のバーチャル社会でも大人が同様の事を子供にしてやらなくてはいけないハズだ。

 ただ昔の大人と違い、現代の大人は急いでネット上の世界の仕組みの勉強をしなくてはいけない。ネット上の世界でうまくふるまっていくには、今まで築いてきた社会の大人の常識を基本にすればよい。ココは自信を持って欲しい。(もっとも社会的常識のない自己中心的大人には難しいだろうが)その上で、バーチャル世界特有の上手な言葉のコミュニケーションの取り方とか、特有のルールを学んで、前橋にきてくれた米国のポーリーさんが言うように「子供を信じつつ指導する」ことがこれから日本社会でも大人としてやるべき事だろう。

 要するに、答えは皆わかっているのでは、という気がする。問題はこれから「まともな大人の仕事を地道にやれるかどうか」ではなかろうか。

 「特殊な子」だといって片付けたり「学校は何をしている!」とか「インターネットを子どもに使わせるな!」と安易な事を言ったりせずに、TVもインターネットも含めて、大人が大人の都合で与えている情報環境の中で生きていかざるを得ない子供らのために、まず子供の最終責任者である親が、さらには「子供のことを考える力がある大人」が『出来る事から』はじめなくてはいけないと思う。