歳のはじめに考えた2つの疑問
子どもの携帯電話利用問題を、親はなぜ学校に押し付けたがるのか?もしくは、学校は、なぜ生徒の携帯電話利用問題を引き受けようとするのか?

 あけましておめでとうございます。本年も日本の子ども達のインターネット(携帯インターネット)利用問題解決のためにご協力ください。私どもねちずん村も7年間活動しているのに未だ力(人的能力、資金力ともに)はありませんが、ジリジリと、しかし確実に広がってきた市民的ネットワークの動きに励まされ、少しでも現状の混乱状態を整理するなどして前進したいと思っています。

 というわけで、まずは上記の疑問の整理から手をつけてみました。

ご時世だから仕方が無い?

 私は、子ども達のインターネット(特に携帯インターネット)利用問題に関して、以前から疑問に思っていた、というより腑に落ちないことがある。そのあたりのことを、歳のはじめに整理してみようと思う。

 他でもない、それはまず保護者の姿勢である。例えば子どもが携帯インターネット利用で何か問題を起こすと、保護者の中には学校にやって来て「先生がしっかり指導してくれないからいけない」と苦情を言い立てる者が出てくる。すると学校側は、そうした親を追い返したりせず逆に「申し訳ありません。私どもも精一杯やっているのですが、」と謝ったり言い訳したりする。そんな光景をこの数年各地の中学校等でしばしば見聞し、これはおかしいと思うようになった。

 マスメディアと違い、未成年者のインターネット利用、とりわけ携帯電話からのインターネット利用問題の責任は、そのパーソナルメディアを与えている保護者、家庭にある。そう主張している私(米国では常識だが)にすれば、それは理解し難い対応という他ない。

 小中高の教師の中には「子どものインターネット利用の指導は、パソコンはもとより携帯電話からの利用も含めて、学校で行わなくてはいけない。」と勇ましいことを言う者もいる。しかしメディア論研究の立場から言わせてもらえば、そんなことは無理であり、出来ないことをやろうと言っているようなものである。子どもが起ォてから寝るまで、それこそ寝床の中でも、好き勝手にインターネットの情報世界に入り浸りできる極度な個人利用ターミナルである携帯電話の指導を、教師が責任持ってできるわけがない。おまけにネットの有害情報層の深さは専門家でも測れないのだ。学校で教師が授業中の携帯インターネット利用も管理、指導できないのに、そんな勇ましいことをいうとは、まるで戦車に竹槍ではないか、などと心配になる。どうしてこんなことになるのか?

 思うに、ひとつにはそう言ったほうが保護者からの評価、受けがよくなるからだろう。保護者の中には、携帯電話はインターネット端末という最先端技術であり、それ故子どもには早くから触れさせたいと思っている者や、単なる流行心理から「子どもの携帯電話利用を認めない学校は時代遅れ」と声高に主張する者、あるいは携帯電話業界の関係者で、かつPTAの役員といった立場の人が「良い商品だからこれだけ売れている。学校はもっと前向きに授業で携帯電話利用など取り組まないと世の流れに逆らうことになる」と説得する者さえ出てきた。

 実際に高校の校長さんばかりか最近では中学の校長さんの中にも、そうした空気をすべて読み込んだうえで「ご時世だから仕方が無い」と安易な校内持込許可を出し、その結果として頭の痛いトラブルを招いてしまった所も多い。

 「携帯電話がインターネット端末になったからこそ安易に子ども達に使わせてはいけないのだ。たとえ技術は先端的で市場で売れてはいても、子育て教育上は不要物である。まして学校は流行に合わせて動くところではない。流行には良いものばかりか子育て教育上悪い流行の方が多い」等と言い切れないのだ。

 それどころか、教師の中には「携帯電話もインターネットだから学校でも前向きに授業で取り組まないと保護者や世間から評価されない」と校長を突き上げる者も出てきた。インターネットの情報環境が教育的でない内容に急速拡大しているという実状や携帯インターネットを使った授業を作るのはパソコンからのネット利用授業に比べると大変な努力が必要で、それよりも既に携帯インターネットで生徒らが起こしている問題の火を消すほうが急務だ、ということがわかっていない。そんなハイテク賛美教員も依然多いのだ。その一方で、冷静に問題を認識したうえで「インターネット利用は保護者の責任と突っ放しても、実際に子どもの携帯電話を含めたインターネット利用を指導できる親は多くない。放っておくと子どもの起こした問題は学校の責任にされる。ならば携帯電話利用教育を学校で行うべきだ」と自己防衛的主張をする教師も出てきた。

 言ってみれば、そうした学校側と保護者側の心理が合わさって「子どもの携帯インターネット利用の問題処理、教育も学校が引き受ける」という空気を作り出し、保護者も「学校の責任でやって欲しい」と言い続けている。そう私は考えてきた。だが正直それだけでは未だ納得できない。そのような「親を学校に寄りかからせている不合理な現状」の根は、もっと深いところにあるのではないか。そんな問題意識を持っていた。

親たちの過度な学校依存体制に警鐘

 これまでいろいろ考えてきたが、年末にたまたま「学校・家庭のブリッジ論」なる興味深い論文を発見し、これで合点がいった。あまりにも親が学校を頼り過ぎるという、問題の根っこが見えてきた。

 その論文は「学校と家庭をむすぶ新教育論」という書籍に収められているもので、論題は「学校と家庭・地域社会をむすぶ教育はなぜ必要か」となっている。筆者は高石邦男・文部事務次官とある。高石邦夫氏といえば1986年から1988年まで文部事務次官として官僚組織の頂点に立ち君が代の斉唱問題でも知られたが、結局はリクルート事件で失脚したある意味大物官僚である。その官僚の軌跡はともかくとして、彼が現役時代に表した上記の論文は、私が首をかしげるような今日的状況の整理、理解に大いに役立った。要するに彼は「親は子どもの教育にもっと責任を持て。学校は親の役割まで引き受けるな。親と学校が連携しなければいけない」と言っているのだ。元文部省高官のそうした論考は、インターネット時代にこそ再考すべき主張と言える。

 ちなみに「学校と家庭・地域社会をむすぶ教育はなぜ必要か」という論文は、1)子どもをとりまく環境の変化、2)学校教育の変化、3)家庭教育の変化、4)家庭教育の機能低下、5)学校と家庭の協力による教育機能の回復、という5つの章立てから成っている。高石論文は冒頭で、こう述べている。「子育てにおける学校と家庭の協力の必要性を提唱し、数年になる。何故、現在、その必要性を強調しているかといえば、子どもをとりまく環境が大きく変化していること、学校教育だけでは十分な成果をあげえない分野が拡大していること、家庭教育機能が低下していること等により、従来型の学校教育の考え方では、限界があると考えたからである。」

 高石論文は、まず「子どもをとりまく環境の変化」として①都市化現象の進行②情報化社会の到来③消費経済社会④子どもの遊びの変化という4つの現象を挙げている。そしてこれらの現象変化の基底には科学技術の発達があるとして、次のように述べている。
  「科学技術の発達により、われわれの日常生活は大きく変化してきた。自分の手足を使って物を作り出す人間の能力の退化をもたらしているだけはなく、人間の精神的面にも影響を与えている。田舎での隣近所との連携意識は、都市化で失われ、助け合い等の心を育てることができなくなった。」

 急速な都市化の流れをもたらした産業技術は大量生産体制を生み出し、使い捨て文化、消費は美徳という価値観を作り上げ、子どもの遊びも変化してきた、とする高石論文は、子どもの遊び道具から遊び相手の変化にも着目している。

 「遊び相手が人間や自然から機械になっている。昔の子供は、多くの友達と自然の中で遊ぶことが多かったが、今の子供は、室内でテレビやマイコンを相手に遊ぶ時間のほうがはるかに多くなっている。核家族化、少子化がすすむなかで、人間とのふれあいが少なくなっているうえに、遊び相手が機械になっている。」

 この記述は、「今の子どもは室内でパソコン、インターネットで遊ぶようになった」というフレーズを追加すれば現状の説明にもなる。
  高石論文では、また子どもの生活変化をもたらした現象として社会の情報化を重視し、こう述べている。

 「昔は、教師や親たちから、直接対話で、各種の情報が伝えられることが多かった。したがって、子供に伝えられる情報は、ある意味では、ろ過されていた。子供に悪い影響を与える情報はカットされたり、悪い手本として伝えられるなどの教育的配慮がなされていた。ところが、今は、テレビ、雑誌などを通して、直接に、生の情報が子供たちに伝えられるような社会になっている。一定の知識、経験、判断力を持った大人には、生の情報であっても十分にそしゃくされ、悪い情報を与えることにならないものであっても、青少年には有害な刺戟になる場合がある。」

 要するにテレビなどマスメディアの普及で、家庭や地域の教育力は小さくなった、というのである。今であれば、さらに「インターネット時代に家庭の教育力は一層小さくなった。」と付け加えるべきであろうが、高石事務次官の時代には、インターネットというパーソナルメディアは米国で胎動をはじめてはいたものの、日本の社会にはほとんど知られてはいなかった。もし高石氏がインターネットを知っていたのなら、「有害な刺戟になる場合がある」等と悠長な表現ではすまなかったはずだ。なにしろインターネットの画面、とりわけフィルタリングの無い携帯インターネットの画面には、犯罪に直結するような有害情報が、教師はもとより親の頭さえ飛び越えて、ダイレクトに子どもに届いてしまう。そういうメディアの普及が視野に入ってくれば「親は子どもの教育にもっと責任を持ち、家庭と学校が協力すべき」という彼の学校・家庭のブリッジ論も、一層の緊急性と緊張に満ちたアピールになったはずだ。

 更にいえば、その結果として伝統的な教育政策すなわち「保護者、親を学校に寄りかからせるべし」という日本の教育政策を見直すべきだという彼の主張も、緊迫度がより高くなるはずである。なにしろ高石氏はこんなことを言っているのだ。

 「日本型の学校教育には、他の先進諸国に見られないいくつかの特色がある。そのひとつは、本来、家庭教育の分野に属すると思われているものについても、積極的に学校教育に取り込み、教育の成果を収めてきたことである。たとえば、子供のしつけなどに関することは、本来、家庭が責任を持つべき分野であるが、日本の学校では、かなり力を入れて指導してきた。」「しかし、その反面、親たちの過度な学校依存体制を作り上げることになった。本来、親たちが責任を持つ分野についても、その役割を果たさなくなってきた。」

 まさにインターネット時代の到来は「親たちが責任を持つ分野」の再認識を迫っている。
 くどいようだが、インターネット(携帯インターネット)というメディアは、学校だけの手に負えるしろものではないのである。

 結論を言えば私は、高石論文によって、親を学校に頼らせる原因が歴史的に作られてきたことを知った。だから「なんでも学校の責任」と言って済ませる親が増えているわけだ。それとともに、いやそれ故に、インターネット時代の今、「親たちの過度な学校依存体制からの脱却」を急がなくてはならないとも、考えるようになった。