「昔(インターネット以前)と今の違い」が案外分かっていない?

 このところ青少年問題に関する各種会合に呼ばれることが多い。その種の会合において、60代から70代の男性から出る質問で気になるのは「インターネットは規制できないんですか」とか「取り締まりできないんですか」という質問だ。私は「え!そんなこと知らなかったんですか」と言いたいのをこらえて、インターネット以前と以後の子どもの有害情報問題の変化、対応の難しさを説明している。

 ちなみにそういう質問をしている人に限って私が話している時はウトウトしていたりケータイ画面をのぞいたりしているのだが、ま、それはさておき、その種の土地の顔役然としたご老人がインターネットを全く知らないかと言うと案外そうでもなく「インターネットにはものすごいワイセツ情報があるんですね」とも言うのだ。個人的に色々話してみるとそういう人たちはインターネットでも大人の世界と子どもの情報世界が区分されていると思っているらしい。いや思い込みたがっているらしいと言うべきか。いずれにせよ自分達が子どもの頃に過ごした社会環境、情報メディア環境とは大違いな状況になっていることがしっかりとは理解されていないようだ。我々の少年少女時代はマスメディア中心で、反社会的で怪しい情報は現実の都市、町の悪所と同様に社会の隅に押し込まれていた。しかし今はそうではない。インターネットというメディアが作り出す情報環境では大人の悪所と子どもの世界など区分けはできない。私の考えでは、インターネットというメディアは現実の都市のメディア機能をそっくり模倣する高度なシミュレーター(正しくはメディア・マジックを実現するシミュレーター)なのだが、問題はこの情報世界では大人の世界と子どもの世界の区分けができにくいということだ。つまり昔の悪所遊びの感覚で「こんなところに子どもが来て遊ぶことはないだろう」と思ったり、「こんな情報を子どもは見ないだろう」と思っていると大間違いで、子どもも大人と同じ画面を個別にではあるが、共有しているということなのだ。

 親と子が別々に街の図書館に来て偶然会って、お互いに読んでいる本、借りた本の内容を比べ合っている光景ならばほほえましくて安心できるが、思春期の子どもと親がアダルトショップや街の悪所でバッタリ会ったら危ないシーンとなる。

 TVや書籍などマスメディアにはできないメディア・マジックを実現する都市メタファーとしてのインターネット、携帯Cンターネットの子ども世界への急激な普及は、そうした危ないシーンをふやしているのではないのか。そう危惧する能力があれば、会合中にウトウトなどできないと思うのだが…。