子どもにとってメディアとは何か

 メディアとは人と人が情報を受け渡したりコミュニケーションをとるためのツールとされる。つまり情報伝達、意思疎通の手段というわけだ。この一種味気ない定義は、大人社会のもので、児童期・思春期の子どもにとってのメディアの定義はもう少し丁寧に検討する必要がある。

 私の考えでは、子ども(未成年者)にとってのメディアとは単なる実利的な情報知識の入手ツールを超えて、人間として生きる力となる心を育てる手段である。子どもの心を育てる手段と言ってもよい。

 まず最初に子どもが出会うメディアは親である。(人間はそれ自体が最高のメディアである)親、とりわけ母親は、わが子に対する愛情(いとおしむ気持ち)をまなざしで伝える。いわゆるアイコンタクトである。乳幼児期の子どもは、このアイコンタクトを求める。つまり自分に対する親の愛の心を確かめたがる。小児科医達が「お母さん、子どもにお乳を飲ませるときはケータイの画面などを見ないように。顔を見てやってください」というのはそのためである。お乳は子どもの身体を育てるのに必要だが、「まなざしの注ぎ」は子どもの心「愛されているという安心感・自己肯定の心」を育てるのだ。

 乳児期から幼児期にかかると、子どもの方から身体をメディアとして使うようになる。赤ちゃんは腹がすいたという欲求の伝達のために泣き声を出したり、喜び、不安を身体で伝えようとする。(例えば抱きつく、手を握るなど)突然抱きついてきた幼児を親は抱きしめながら「どうしたの?何か怖い?」と尋ねる。子どもの顔に不安の色をみたら「怖くないよ」と安心させる。こうした抱きしめと言葉かけの体験の中から、幼児期の子どもは身体メディアから言語メディアの利用へと移っていく。つまり、子どもは心の働き(不安や喜び・悲しみ・怒りの感情など)を言葉に表し伝えようと努力するようになる。

 幼児期から児童期にかけての子どもの言葉の獲得には、親の働きかけが必要である。ビデオを見せれば、子どもは自然に言葉を使えるようになるわけでもない。言葉の利用によって友達を作っていくこともできるようになる。それを知っているから、親はこの時期、子どもに「そんな言葉使いをすると嫌われるよ」と注意するようにもなる。

 言語メディアの利用は、幼児期から児童・学童期、思春期、青年期に入ってますます重要になる。とりわけ話し言葉から文字メディアの利用段階に入ると、テレビ・書籍・電話・インターネットなど身体メディアから機械メディア利用が重要になってくる。とくに思春期には書籍、雑誌など印刷メディアの影響が古くから重要視されてきた。

 たとえば、思春期における悪書(子どもが非行・犯罪に誘いこまれるような内容の書物)の影響を排除する努力(健全育成努力)がなされてきた。つまり、文字読解力をつけた少年らは、自己形成や自己認識の力をつける過程で発生する心の問題や、心身のアンバランスな発達から来る不安心理解消など、さらには価値観の探求や理想の追求にあたって書物からの情報入手に努力するようになる。だから大人達はそういう時期に人間肯定や社会の理想追求を志向するような良い本(メディア)を与えようとしてきたわけである。逆に言えば人間否定・自己否定的な心理不安を強めるようなメディアを遠ざけてきた。ついでに言えば人間否定。不信やニヒリズムを説く大人との接触も禁じてきた。

 このように人類は長い間、大人と子どもの中間的発達段階にある思春期の子どもの心の育ちの重要性を考えて、メディアの選択を行ってきた。

 結論を言えば、子どもにとってのメディアは単に仕事や生活に役立つ実利的な情報の入手・伝達手段を超えて、人間の生きる力としての心の発達や心の強さを形作るための手段なのである。とりわけ思春期の青少年の心を作るメディアの重要性は、思春期向けメディア商品が増大する現代社会において、もっと強調されてしかるべきであろう。

 日本の思春期の子どもたちがインターネットから大人の悪意や欲望刺激的な情報を受けやすくなったことも心配だが、未成年者自身による有害情報発信の増大をも恐れなくてはいけない。とりわけ子どもたちがインターネットを互いの心を傷付けあうツールとして使うようになることを防がねばならない。

 学校裏サイトの流行では、猥褻情報や誹謗中傷、デマなどその種のリスクが浮き彫りになった。子どもの発信のリスクは、学校裏サイトからプロフやSNSなどに引き継がれ、今後も業者がしかけるネット遊び商売で増大するとみて良いだろう。子ども達は刺激的でスリリングな発信遊びの面白さを知ってしまった。なによりその種のネット遊びを仕掛けた業者が大儲けしてしまった。ネット業者と子供のこの甘い関係は、解消するはずもない。