日本の子どものインターネット利用問題
 ―これまでの経緯と今後の展望・対策の方向性―

 インターネットというメディアが、日本の子ども社会に普及しはじめておよそ20年が経過した。この間日本の子ども達はこのスーパーメディア利用で良い影響を受けたのか、それとも悪い結果がもたらされたのか。以下に下田の考えを述べる。

―インターネットのメディア特性理解について―

 日本の子ども社会のインターネット利用問題を整理するにあたり、インターネットというメディアの特質・特性について押さえておきたい。

 日本のコンピュータ教育者の中には、インターネットは子どもの教育のために開発されたメディアであるという一種の思い込みもあるようだ。このため子どものネット利用のリスク評価が不十分になった。つまりフィルタリング軽視などになった。クリントン政権の時代に「子どもにもインターネットを使わせて勉強させよう」という方針が打ち出されたことでそうした思い込みも生まれたようだ。が、米国では子どもへのネット開放方針とともに有害情報対策などリスク管理も国民的関心事、議論対象となった。私は「日本人とインターネット」という自著に記したが、このメディアは欧米とりわけ米国社会における価値観・社会理念が設計思想(アーキテクチュア)のもととなっている事が知られていない。わかりやすい言い方をすれば、これまでのTVなどマスメディアでは実現できない社会改良のためのメディアが必要という思い・願望がザ・ネットの設計思想の根本にはある。(今回の福島原発災害に関してもNHKや民放が報じられない事実を市民団体がネット放送し外国からも注目されている。)インターネットの開発は米ソの冷戦から生まれた。つまりインターネットは核戦争を想定したサバイバル戦略から設計思想が生まれたという人もいる。確かにインターネットのインフラであるパケット交換技術の発想などは冷戦の産物であろう。しかしこのパケット交換(通信)をベースにした情報の分散・共有の技術的可能性は、後にペンタゴンの研究チームの手を離れて民間のメディア研究者や大学・大学院生・市民グループなどボランタリーなネットワーク組織によって追求されてきた。それらの市民ネットワーク組織の中には、ベトナム反戦など平和思想や人種差別解消などの社会思想エネルギーが流れていた。そういう意味ではインターネットもまた、戦争と平和というテーマの中から姿を現したメディアである。

 加えてインターネットの開発・改良者の中には反差別・人権及び平等思想の普及活動者も多かった。

 インターネット以前の分散ネットワークメディアとしてのパソコン通信の時代から「コンピュータを相互に接続した新しいメディアが社会を良い方向に改良していくツールになり得るはずだ」という希望が語られるようになり、その新しいメディア願望の中からインターネットが次第に姿を現してきたのだ。

 昔から建築家たちがよく使うアーキテクチュア(設計思想)という言葉を80年代頃よりコンピュータ設計者たちも使うようになったが、その設計思想という観点から言えば、インターネットというメディアは、反戦・平和の実現や戦争の原因となる人種差別の撤廃を実現しようとする人々、更には人類共通の課題である地球環境の保護を進めようとする人々が、年齢・人種・性別や立場の違いを越えて協力し合う「助け合いのメディア・ツール」という設計思想がたしかに存在した。しかしブラウザの利用などでインターネット人口が爆発的に拡大するにつれネットユーザーの大衆化・低年齢化の広がりを狙ったネット事業開発が広がった。そうした中からポルノやゲーム、出会いのネット商売品も成長した。(特に日本では子どものケータイ・ユーザーを狙った快楽的ネット商品化が拡大)
 このような主として米国のインターネットの設計思想(アーキテクチュア)からこのメディアの特色をまとめると、

 (1) インターネットは社会改良のメディアとしての夢と期待を実現するための情報の分散・共有化機能が充実したメディアである。

 (2) インターネットはデモクラシーの実現・発展のため、普通の個人が一市民として広く社会に意見を発信できるように個人発信機能が強化・充実されたメディアである。(ホームページ・ネット放送等)

 (3) インターネットは、かつてのアマチュア無線と同じように見知らぬ人と知り合い、情報交換をしたり助け合う(相互扶助的)コミュニケーション(ソーシャルネットワーク)を実現するための機能を充実させたメディアである。(ザ・ネットでは助けを求める人に情報提供したりして手を差し伸べるのが当たり前とされるし、それができる。このメディアで署名活動をしたり、募金活動もできる)

 (4) インターネットは、個人が国や人種・性別・年齢の違いを越えて相互理解し、協力関係を作り出すためのマルチメディアとしての表現力を高めたメディアである。
 上記のようなインターネットのメディア機能は今後も引き続き改良・発展していくことは確かだ。すなわちインターネットは依然開発途上のメディアである。それだけに我々日本の大人は子ども達の為にもインターネットの設計思想と、そこから生まれたネット機能の意味をしっかり理解すべきであろう。

 上記のインターネットの設計思想を理解したうえで、そのメディア機能を使えば、子どもたちは
 (1) 自分の考えや意見などを広く発信し、意見を交換し相互理解や助け合いを実現していくオープン・マインドな使い方をすることができ、自分の世界観や有益な人的ネットワークを広げることができる。

 ではこの10年、日本の子ども達にそうした可能性のある道を歩むようなネット利用をさせてきたのかどうか。今、そこが問われていると思う。結論的にいえば、日本の子ども達のインターネット利用は、インターネットというメディアの開放的で明るい可能性とは逆の閉鎖的で暗い可能性・望ましくない発展性を開く方向に進んできたと言わざるを得ない。
 日本の子ども社会に特有のネットいじめのかたちやネット依存現象さらにはエンコ―と呼ばれる少女売春の定着や子どもの性暴力被害などインターネットを使った日本の子どもの非行・逸脱・犯罪現象から、私はそういう判断をするようになった。

― 閉鎖的・差別的・利己的・快楽的な子どもネット文化が広がる ―

 主として、下田がこれまで群馬大学下田研究室や各種公的委員会(例えば埼玉県ネットいじめ対策委員会等)の長として活動調査した結果などをもとに判断すると、総体的に日本の子ども達は、暗くて閉鎖的でインターネット本来の夢のある発展性が期待できるような使い方はできていない。
 つまり自らの視野を広げ、社会的にも発展的な人間関係や人間関係形成能力をインターネット利用で獲得しているとは言い難い。ネット、特にケータイやゲーム機を使う事で学習能力が上がったという確信もない。特に中・高生の思春期の子供が業者の手の中で作るネット・サブカルチャー(学校裏サイトサークルやプロフなど)には良い変化を見出すことはできない。
 たとえば私は最近のOECDの「子どものネット利用と学習環境能力調査」などにも注目している。そこでは興味深いデータや分析が発表されている。OECDの国際比較調査によると、日本の子ども(高校生)は、読書に親しまず、漫画を好み、学習の基礎能力ともいうべき読解力も低く、ネット依存傾向も強いと分析されている。
 OECDの国際比較調査の要点を整理すると、日本の子どものインターネット利用では次のような特徴がみられる。

 (1) 仲間内だけで通じる短いメール文のやり取りが中心になっている
 (2) 文献検索など情報探索の利用は少ない
 (3) ネット上でのフォーマルな場での意見発表や意見交換が少ない
 (4) ゲームやメールなどネット依存傾向が強い
 (5) ネット利用の時間は少なくないが、読解力は国際的にも劣る

 こうしたOECDの分析・指摘や私自身の調査・研究などを総合すると、次のような日本の子どものネット利用の特長が浮かび上がってくる。つまり日本の子どもはインターネットというメディアを使って意味を読み取る力や主体的に調べ、自己の意見を形成し、発表し、意見交換する力さらには意見の異なる相手との意見交換や意見調整能力を高めているとはいえない。にもかかわらずネット依存傾向は高い。ということは、日本の中高生たちはまともなメッセージのやり取りができるパソコンではなく長文の読み取り、意味とりやまともな議論に不向きなケータイやゲーム機等から、意見や感性を同じくする同室の仲間との閉鎖的なコミュニケーションをネットで行っていることになる。これはインターネット利用の望ましい方向、つまり
 (1) 自分の意見をまとめて広く発信する
 (2) 意見の異なる相手との調整能力を発揮し、ソーシャル・スキルを高め、ボランティアなど利他的で建設的なネットワークを作っていく社会的コミュニケーション能力(すなわちオープン・マインドなコミュニケーション)が十分備わっていないことになる。

 インターネット本来の設計思想からすれば、異なる意見の相手とも意見交換し、社会的視野や人脈を広げて有用な人脈を拡大するオープン・マインドなネット利用のかたちを子ども達は経験できたはずである。しかし現実は意見や価値観を同じくする同質の仲間との気楽な関係を強める閉鎖的(クローズド・マインド)なインターネットの使い方を、携帯電話やゲーム機などから促進してきたことになる。

 さらに言えば、日本の子ども達はまともな大人・親によるペアレンタル・コントロールが困難なネット端末からゲームやプロフ遊びなど、遊びコンテンツを好む同質の仲間作りにいそしみ、そうした仲間との絆を強めるメディアとしてケータイなどモバイル機を使いこんできたと判断できる。

 日本の子ども達は、学びより安易な遊びのインターネット利用をフィルタリング無しのケータイから行い、同質で排他的な人間関係を作るネット文化(サブカルチャー)を形成した。いわば排他的(差別的)でクローズドなネット文化を作ってきた。オープンで建設的なネット文化ではなくクローズドなネット文化である。まともな大人の導きなく、逆に言えば悪徳ネット業者の手の上で作られたこの外に開かれぬ排他的・差別的で利己的なネット文化という土壌の上にネットいじめや少女売春というネット非行・犯罪が開花した。下田はそう分析している。この構造を改善するために何をすべきか。それが今、まともな親・教師・大人たちの課題である。

―まともな大人がすべきこと―

 他者を思いやり助け合うという利他的とは反対の利己的で同質的・排他的かつ差別的・快楽的な子どもらのインターネット利用文化(ネットサブカルチャー)の形成。それが日本の子どものネット利用の特長・結果である。
  この日本の子どものネット・サブカルチャーを変えない限り、日本の子どものネット利用問題すなわち、ネットいじめやネット非行・犯罪などをなくすことはできないはずだ。では我々は何をすべきか。

 問題は、どうすればその子どものネット・サブカルチャーを変えることができるかである。現時点で日本の大人(主として親・教員)がすべきことは4つある。

 (1) まずは子どものネット利用の責任は大人(保護者)にあるという社会常識を(ネット商売をするものは、そうしたまともの大人を困らせる商売をしてはいけないという社会世論を)広げる必要がある。

 (2) インターネットの設計思想からの機能理解や、メディア特性理解をすること。そのうえで子ども達にインターネット機能の正しい使い方をペアレンタル・コントロールの立場から教えられれるようにならなくてはいけない

 (3) 特にインターネットというメディアを排他的、利己的に使うべきではないことを子どもらに説く必要がある。自分の利益だけ、自分さえよければというエゴイスティックな気持ちでこのメディアを使うと結局は自分の為にもならず、事件やトラブルを自ら招いてしまうという事を子どもに教えるべきである

 (4) 結論的には、日本の社会でインターネットをオープン・マインドの方向に使うことの意義を理解した親や大人が現れ、それらの人々が子ども達のお手本になるようなオープン・マインドなネットワーキング活動(ネット業者・行政の誤りを正すなど問題解決の活動)をしていく過程で子ども達を導く道を拓いていくしかなかろう。つまり子ども達に大人の背中を見せて正しい方向を悟らせていく努力が求められる

 そのため、下田個人としてもペアレンタル・コントロール(子どものメディア利用管理・監督・指導)の方法論をより具体的・明確に示し、大人の学びとネット時代の親や教師による子育て助け合いの人の輪を広げられるような努力を精一杯行っていきたいと考えている。